潜在価値の時代③ AGIとAIエージェントという雑音―本質を見えにくくする言葉

平野淳|生成AI潜在価値開発ラボ株式会社

平野淳|生成AI潜在価値開発ラボ株式会社

2026年6月8日 17:47


前回、私はAIを、万能でも単なる道具でもなく、超優秀な部下集団の出現として捉えるのがもっとも現実に近いと書いた。
生成AIは、個人に組織力を与える。
だが、その組織力をどう使うかは、最後には人間の側の構想力と方向づけにかかっている。
AIの進化そのものより、その進化の上で何を構想するかのほうが重要だ、という話である。
ところが、現実に世の中で流通しているAIの議論は、そこになかなか届かない。
AIそのものをどう使うかという話に入る前に、まず別のものが前面に出てくるからだ。
それが、AGIであり、AIエージェントである。
もちろん、これらの言葉自体に一定の意味はある。
だが、問題はその厳密な定義そのものより、その言葉が社会の中でどう機能しているかにある。
それらはしばしば、AI時代の本質を照らすよりも、むしろ本質を見えにくくする。
だから私は、あえてこう言いたい。
AGIという雑音、AIエージェントという雑音である。

言葉は実体より先に走る

新しい技術が出てくるとき、まず広がるのは多くの場合、その技術の実体ではなく、それを包む言葉である。
言葉は、人の想像力を刺激する。
何か新しい世界が始まるのではないか。
いままでの前提がひっくり返るのではないか。
自分の仕事や生活が一変するのではないか。
そうした期待や不安は、言葉を通じて一気に広がる。
AIをめぐっていま起きていることも、それに近い。

AGIという言葉は、「人間を超える汎用知能」のようなイメージを伴って流通する。
AIエージェントという言葉は、「人間の代わりに自律的に働く存在」のようなイメージを伴って流通する。
どちらも、ある種の未来感や新世界感をまとっている。
だが、ここで問題にしたいのは、これらの言葉が技術的に正しいかどうかではない。
本文は、技術用語の精密な定義を与える文ではないからである。
ここで問題にしたいのは、その言葉が人々の認識の中でどう作用しているかである。
そして現実には、その作用はかなり大きい。
人は、言葉の持つイメージによって、本来見るべきものから目をそらされることがある。
その意味で、これらの言葉は雑音になりうる。

AGIという雑音

AGIという言葉が広がると、人はすぐに「人間を超える知能」や「すべてを理解し、すべてを解決する存在」のようなものを連想しやすい。
すると議論は、急に現実の手触りを失う。
本来考えるべきなのは、いま自分たちの仕事や経営や戦略や価値創造の条件がどう変わっているかである。
にもかかわらず、AGIという言葉が前に出ると、議論はすぐに、

  • 本当に人間を超えるのか
  • 意識は生まれるのか
  • どこまで自律化するのか
  • 人間は不要になるのか

といった、大きく、だが実務には降りてこない問いに流れやすい。
もちろん、こうした問いに意味がないわけではない。
だが、多くの場合、それは本質に近づくための問いというより、本質から遠ざかるための問いとして機能している。

なぜなら、それによって人は、「いま起きている現実の変化」よりも、「いつか来るかもしれない巨大な未来」のほうに意識を奪われてしまうからだ。
だが実際には、AI時代の本質は、まずそういう壮大な未来の話にあるのではない。
もっと現実的で、もっと地味で、もっと決定的な変化にある。
見えるものが可視化・自動化・標準化されること。
その結果、見えない価値が浮かび上がること。
ここを見ないままAGIの話ばかりしていても、経営や戦略は前に進まない。

さらに言えば、AGIという言葉の広がりには、もう一つの混同がある。
それは、知的能力の高さと主体性を混同してしまうことだ。
人間を超える知的能力を持った。
だから、より優れた人間のようなものだ。
そう考えてしまう人は多い。
しかし、そこには大きな論理の飛躍がある。

人間が意志や主体性を持つのは、肉体を持ち、時間に制約され、他者との関係の中で生きる限定された社会的存在だからである。
生存、安心安全、承認、社会参加、自己実現、自己拡大といった欲求があるからこそ、何を求め、何を避け、何を選ぶかが生まれる。
そこから意志も主体性も立ち上がる。

AIには、その根がない。
AIは生体ではない。
だから、AIが意志を持つように見えるとしても、それは人間が与えた目的や条件のもとでそう振る舞っているにすぎない。
能力が高いことと、主体であることは別である。
つまり、AGIそのものが問題なのではない。
AGIという言葉が、いま見るべきものを見えにくくする。
この意味で、それは雑音なのである。

AIエージェントという雑音

AIエージェントという言葉も、似たところがある。
この言葉は、いかにも自律的で、いかにも人間の代わりに動き、いかにも次世代の知的労働を担う存在のように聞こえる。
実際、その方向へ技術が進んでいること自体は確かだろう。

だが、この言葉が流通するとき、多くの場合そこには、実態以上の万能感が乗る。
AIエージェントが仕事をしてくれる。
AIエージェントがタスクを全部回してくれる。
AIエージェントが事業を動かしてくれる。
そうした語りは、人にとって魅力的だ。
なぜなら、人間が面倒なことから解放される未来を感じさせるからである。

しかし、本当にそうだろうか。
たしかに、一定の定型業務や情報処理や連携作業は、エージェント的な仕組みによって大きく変わるだろう。

だが、それによって自動的に戦略が生まれるわけではない。
価値が定義されるわけでもない。
独自性が立ち上がるわけでもない。
市場における意味が決まるわけでもない。
つまり、AIエージェントができるのは、せいぜい手順をこなすこと、情報を処理すること、実行を補助することまでである。
だが、何を目的とするのか、何を価値とするのか、どの問いを立てるのか、どこに賭けるのかは、相変わらず人間の仕事として残る。
結局のところ、問題の中心は使う人間の意志である。
いまアンソロピック(Anthropic)の「Claude Mythos(クロード・ミュトス)が大きな話題になっている。大変な能力を持っているそうで、その危険性も指摘されている。
もちろん悪意を持つ人間は必ずいる。
だから悪用を前提とした安全設計や制度や運用は必要になる。
つまり、結局は人間の意志の問題なのである。それ以上でも以下でもない。
AIエージェントが本当の意味で意志を持つわけではない。
高度な代行能力を持つ存在が現れ、それを人間がどう使うかという問題にすぎない。

にもかかわらず、AIエージェントという言葉は、ときにその境界を曖昧にする。
まるで、実装能力がそのまま構想の問題まで解決してくれるかのように見せてしまう。
ここに危うさがある。
AIエージェントそのものが問題なのではない。
問題は、AIエージェントという言い方が、実装と構想の差を見えにくくすることである。
この意味で、それもまた雑音なのである。

雑音の何が問題なのか

では、なぜ雑音が問題なのか。
それは、雑音が大きいほど、本来考えるべきことが後景に退くからである。
AI時代に本当に問われるのは何か。
それは、

  • 自社の潜在価値をどう発見するのか
  • 何を価値とみなすのか
  • 市場をどう解釈するのか
  • どんな世界観を提示するのか
  • 何を戦略として選び、何を捨てるのか

である。
つまり、経営であり、経営戦略であり、価値定義である。
しかし、AGIやAIエージェントという言葉が前に出すぎると、人はそちらに注意を奪われる。
すると、「自社は何をすべきか」という問いより、「AIはどこまで行くのか」という問いばかりが大きくなる。
これは、本末転倒である。

つまり、
変化の方向を語る言葉が、変化への応答を考える力を弱めるのである。
だから私は、これらを雑音と呼びたい。
それは、無意味だからではない。
本質を照らす力もある。
だが、それ以上に、本質を見えにくくする働きも大きい。
その意味で、距離を取って見る必要がある。

「変わる」と言うだけでは足りない

いま外部で発信されているAI論を見ていると、多くは結局、
変わる
と言っているだけに見える。
もちろん、それ自体は間違っていない。
変わるのは確かだろう。
知的処理のあり方も、仕事の速度も、組織の形も、価値の見せ方も、変わる。
だが、本当に重要なのは、その次である。
では、どうするのか。
何を再定義するのか。
どこに新しい価値を見出すのか。
自社のどんな潜在価値を核にするのか。
どう構想し、どう実装するのか。
ここまで行かなければ、変化の認識はビジョンで終わる。
それはそれで市場には必要なのかもしれない。
変化の空気をつくり、問題意識を広げるからである。

だが、それだけでは企業も人も動けない。
必要なのは、変化を語ることではなく、変化への応答を設計することである。
この点で、AGIやAIエージェントの議論は、多くの場合まだ上空にとどまっている。
広い視野はある。
だが、深く地面に降りてはいない。

必要なのは、位置付けの整理

だからこそ、こちらには出番がある。
本当に必要なのは、位置づけの整理である
私は、AI時代に必要なのは、派手な未来像より、まず位置づけの整理だと思っている。

AIは何者なのか。
何をしてくれるのか。
何はしてくれないのか。
人間の仕事は何として残るのか。
見えない価値とは何か。
戦略とは何か。
経営とは何か。

こうした問いを、一つひとつ地に足をつけて整理しなければならない。

そこを飛ばして、いきなりAGIやAIエージェントの未来だけを語っても、本質には近づきにくい。
むしろ、AIによって見えるものが処理されるほど、人間の仕事の核心はよりはっきりする。

何を定義するのか。
何を価値とするのか。
何を構想するのか。
何を独自性として打ち出すのか。

ここに、人間の役割が残る。

つまり、AI時代とは、人間の役割が消える時代ではない。
人間の本質的役割がむしろあらわになる時代なのである。

雑音を切った先に見えるもの

AGIという雑音。
AIエージェントという雑音。
こうした言葉を一度脇に置いてみると、ようやく見えてくるものがある。
それは、AIが知的処理を肩代わりすればするほど、
人間の仕事の重心が、処理することから、価値を定義し、方向を定めることとへ移る、ということだ。
だから最後に問われるのは、経営と戦略である。
もっと言えば、経営や戦略の源泉である見えない価値を、どう発見し、どう定義し、どう扱うかである。この重要性はAI時代でも変わらないし、むしろ重要性は今後さらに高まる。

AIで市場の外部情報をいくら集めても、そこから本当の戦略は生まれない。
AIがもっともらしい戦略らしきものを作っても、それだけでは成果は出ない。
なぜなら、情報それ自体は外部のどこにでもあるもので、優位性の根源である唯一性がないからである。
有効性をもたらすのは、市場の独自の解釈と、自社の蓄積資産、とりわけ潜在価値の発見から生まれる概念創造である。
ここに届かない議論は、どれだけ刺激的でも、どれだけ未来感があっても、本質には届いていない。
だから私は、雑音を切った先で、潜在価値という言葉を立てたい。
AI時代の核心は、そこにあるからである。

本稿は、連載 『潜在価値の時代』 の第3回である。
ここでは、AGIやAIエージェントという言葉が、どのように本質を見えにくくするかを考えた。

AI時代に最後に浮かび上がるのは、潜在価値であると述べた。
ではなぜ私が潜在価値という考えに辿り着いたのか。
次回はそのことをお話したい。

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